小松製菓と言えば「巌手屋の南部せんべい」! おしん創業者・小松シキさんの味!
小松製菓
株式会社 小松製菓は、岩手の伝統銘菓「南部せんべい」を製造・販売している、岩手県二戸市に本社を置く製菓会社です。
600年の伝統があるという「南部せんべい」を製造する会社が地元に約50社ある中で、小松製菓は、後発ながら最大手の地位を維持し続けています。
何がそうさせているのか、小松製菓の歩んできた道のりを振り返ってみると、そこには現在まで受け継がれている、創業者である小松シキさんの幼少時からの苦難の物語があります。
ここにも「おしん」がいたんだなあ!と思わされる、女性が商売で自分の人生を切り開いてきた、心打たれる歴史の事実がありました。
小松シキさんの生涯
小松シキさんは、大正7年(1918年)、馬淵川にぐるっと囲まれた、岩手県の舌崎という地で生まれました。馬淵川の向こう側はもう青森県という、県境の土地です。父母にとって、8番目の子どもでした。
大正7年といえば、富山、神戸、大阪といった都市部で、米価高騰に対する市民運動であった「米騒動」が発生した年です。岩手県の一部でも、それに呼応する動きが見られました。
シベリア出兵によって世情が騒然としていた時代で、シキさんはそんな時代に生まれたんですね。
シキさんは、幼い頃に父を亡くし、母カネさんが女手ひとつで、8人の子どもを育てました。炊事、洗濯はもちろん、お針仕事や畑仕事までこなし、朝早くから夜遅くまで働きづめの母の姿を見て、シキさんは育ちました。
小学校に入ると、シキさんは母を少しでも楽にしようと、子守の駄賃を得るために昼は近所の子どもを背負って学校に通い、夜は「縄ない」をしてお金を稼ぎました。
11歳になると、「束ね」(木綿の端切れを縫い綴じたもの)を売りに、姉と一緒に町へ出かけました。真冬も売りに出て、吹雪にあって死にかけたこともありました。
売れるときもあればぜんぜん売れない時もあり、お客さんが何を求めているのかを考えながら、幼いながらにシキさんは、商売を学んでいきました。
小学校をあがった12才の頃、シキさんは青森県八戸の百石という小さな町の小さな南部せんべい屋に奉公に出ました。ここで覚えた煎餅焼きが、やがて生涯を決める生業となるのですが、この頃はただ目の前の仕事に打ち込むだけでいっぱいだったはずです。
奉公先でのシキさんの仕事は、せんべい屋の家族が店に出ている間に、家事全般を片付けること。この家には寝たきりのおばあさんがいて、おばあさんの世話をするのも、シキさんの仕事でした。
秋を迎える頃には、シキさんは家事にも慣れ、今度はせんべいの焼き方や客の応対などのせんべい屋の仕事も手伝わされるようになりました。
朝から晩まで身を粉にして働いて、1年がたった頃、シキさんは店の主人夫婦に呼ばれ、1年間の稼ぎだと言われて、木綿の着物1枚とわずかなお金を受け取りました。
1年間、あれだけ働いたのに、もらえたのはあまりに少ない金品でした。この時、シキさんは、人に使われていてはだめだと思うようになり、自分で商売を始めることを考えるようになりました。
実際にシキさんが自分で商売を始めたのは、14歳の時でした。
せんべい屋の後、意に反して、別な農家に奉公に出されましたが、このまま奉公していたのでは、いつまでたっても親孝行ができないと、シキさんは決意して家に帰ってきてしまいました。
そして母に、シキは商人になってたくさんお金を稼ぐから、もう奉公には出さないでくれと宣言したのでした。
翌朝、母がいないと思ったら、リヤカーを引いて帰ってきて、「これしかしてやれない。あとはお前の力でやってみろ」とシキさんに言いました。母は、親戚からシキさんが商売に使うリヤカーを借りてきてくれたのでした。
こうして、シキさんの商売は始まりました。舌崎のどの家も寝静まっている頃、白菜やリンゴをリヤカーいっぱいに積んで、シキさんは、12キロ離れた福岡の町まで売りに行きました。
商売が軌道に乗ってくると、姉もシキさんと一緒に行商するようになりました。
昭和12年(1937年)、19歳の時、シキさんは下駄職人の小松實さんと結婚しました。
長女美穂さん、長男務さん(小松製菓現社長)」をもうけ、裕福ではないながら幸せな家庭を築いていました。
やがて戦争が激化し、實さんも出征していきました。戦争が終わって、實さんは戦地から引き揚げてきますが、敗戦の混乱で物資は欠乏し、下駄の材料の木材が手に入らないため、下駄作りは再開できませんでした。
やむを得ず、實さんは畑を耕し、シキさんは下駄の鼻緒を作って売ったり、古着を売ったりして、やりくりしていました。
ある日、いつものように町に売りに出ると、知り合いが声をかけてきました。中古の「せんべい型」を買わないかというのです。値段は、21丁で1万円!当時の1万円は大金でしたが、シキさんはすぐに買うことを決めました。
行商の行く末を心配していた時だったので、せんべい型との出会いに、運命的なものを感じたのです!
こうしてシキさんは、せんべい屋を始めたのですが、誰かが教えてくれるわけではなく、頼みは昔せんべい屋に奉公して手伝った時の経験だけでした。一家を飢えさせないために、自分のできることをやるしかないという思いだけで始めたのでした。
戦後、砂糖は統制品で、一般にはほとんど出回りませんでしたが、シキさんの焼く南部せんべいは、貧しい南部地方の伝統食だったため、小麦粉とゴマと塩だけで焼かれた素朴なものです。
福岡の町でシキさんのせんべいを置いてくれるところも増え、シキさんのせんべい屋は、順調に伸びていきました。最初はシキさんが一人で焼いていましたが、やがて一人では間に合わなくなって、近所の方に二人、三人と手伝ってらうようになりました。それでも注文に間に合わなくなって、ついに半自動の機械を導入することになりました。
昭和45年(1970年)、シキさんのせんべい屋は「株式会社 小松製菓」となり、販売部門の「巌手屋」を併設しました。「南部せんべいの巌手屋」は、全国的に知られるようになって行きました。
山の木、川の水、会社の人。私は、人を大事にしよう。それが、私の一番の仕事だと考えました。(小松シキ著 『むすんでひらいて』)
自助工房「四季の里」の先見性が、県内外から注目される!
自助工房「四季の里」は、岩手県産そば粉100%を使用したそばと南部地方の郷土料理が食べられるお店です。そばは、殻むきから石臼で粉にひくまで自店で行い、挽きたてのそば粉を手打ちして作っています。
「私たちと一緒に頑張ってくれた従業員の方々が、定年後も生き甲斐を持って働けるように」というシキさんの思いから、「ただ身内のことを考えて」自助工房「 四季の里」は創られました。
「自助工房」という名前は、「年寄りだからって、社会や子供に甘えていないでやれることはやろう、自分の足で歩けるうちは頑張って歩こう」という思いを込めてのネーミングだったそうです。
定年後の従業員の生活や生き方まで考えてくれる経営者というのは、終身雇用制がまだ健在だった時代の日本でも、かなり珍しかったと思います。だからでしょう、「四季の里」への反響は驚く程大きく、町の役場からは「行政がやるべきことを小松さんがやってくれた」と評価され、テレビや新聞からも引っ張りだこで、県外からの視察団もいっきに詰めかけ、当初は対応にあたふたしたようです。
現在の自助工房「 四季の里」も、昼時はいつもいっぱいのお客が詰めかけていて、二戸の名所となっています。
たびたび引用してきた小松シキさんの自伝『むすんでひらいて』は、1996年にIBCビジョンから出版されていますが、それに先駆けて、平成6年(1994年)、地元テレビ局のIBC岩手放送によってドラマ化がされて『 マイ・マザー・リバー「むすんでひらいて」』が、全国29局ネットで放送されました。
小松製菓の美味しい商品紹介!
その後、小松製菓は、加工品の品ぞろえも豊富になっていきました。
いまでは、「巌手屋」ブランドの商品のほかに、スイーツの専門店「タルトタタン」が加わり、200品目もの商品ラインナップとなっており、とてもすべては紹介しきれないので、代表的な商品を紹介します。
「割りまめ醤せんべい」は、あえて割った南部せんべいに醤油味を沁みこませたもので、さっぱりしたしょうゆ味と落花生の甘さが楽しめます。
「南部せんべいのみみ がんこみみ」は、南部せんべいは型に入れて焼くため、「みみ」ができますが、さらに型からはみ出した「はじっこのみみ」が「がんこみみ」です。はみ出した所を焼かれているので、かりかりしておいしいと人気です。ただし、南部せんべいを焼いた副産物なので、数に限りがあります。
「いかせんべい」は、軽く焼いたゴマせんべいに焼いたイカを裂きイカにして載せたもので、イカの柔らかさとせんべいの香ばしさが楽しめます。
「南部えびせん」は、札幌市の老舗てんぷら屋「蛯天分店」の監修で作られた特性ダレと天然蝦を殻ごと使った、巌手屋の南部せんべいとのコラボ商品です。両店のイメージ画を描いてくれた画家の「おおば比呂司」氏つながりで実現しました。
「チョコ南部」は、2009年に発売された、巌手屋にとっても「革命的な」新商品でした。美しく焼き上げるのに細心の注意を払って作っている南部せんべいを、わざわざ細かく砕いて、100%のピュアチョコレートでコーティングしたチョコクランチです。