赤穂浪士「討ち入り」の目的とは? 『忠臣蔵』の通説に新事実!?
本所松坂町公園・吉良邸跡
「忠臣蔵」とは何か?簡単にまとめてみた!
赤穂浪士の「討ち入り」の物語は、一般的には『忠臣蔵』と呼ばれています。
実際に起きた事件を題材にして作られた歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』(1748年初演)が有名になったため、そこから取られた呼び名です。
この歌舞伎の台本は虚構的要素が多く、それと区別するため、実際に起きた事件の方は「赤穂事件」と呼ばれています。
『忠臣蔵』は、長い間日本人に愛されてきましたが、フィクションの部分が広く知れ渡ってしまったため、 歴史的事件としての真相は、かえって知られていないかもしれません。
歴史的事件としての『忠臣蔵』を、簡単に見ていきたいと思います。
殿中刃傷(でんちゅうにんじょう)
元禄14年(1701年)3月14日、赤穂藩藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は、江戸城内・松の廊下で、高家筆頭・吉良上野之介(きらこうずけのすけ)に、脇差を抜いて切りかかりますが、刀の先が吉良の額を傷つけただけで、討ち逃してしまいます。
この時の将軍は三代徳川綱吉で、「生類憐れみの令」を発して極端に犬を愛護する政策をとったため、犬公方(いぬくぼう)として庶民から疎まれていました。
内匠頭がどんな理由で上野之介に切りつけたのかは、何も言い残していないため、いまだに謎です。
本当に殺すつもりだったら、切らずに突いたはずだとか、内匠頭の動機をめぐってはいろいろな説が入り乱れていてはっきりしません。
ただ、浅野内匠頭の殿中刃傷を聞いた綱吉が激怒して、内匠頭には即刻切腹を命じたのに対し、上野介には何の沙汰もなかったため、「喧嘩両成敗」という当時の武家のルールが守られていないとして、多くの武士や町民の間に幕府の処置への不信感を残すことになりました。
「風さそふ花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん」
という、辞世の句を残したと言われています。
「とやせん」の部分は「とかせん」が正しいという説もあり、また、そもそもこの辞世の句自体が作りものだという説もあります。
切腹の場が、預けられた大名の庭先だったため、武士の切腹の場として相応しくないと、浅野家とそれを支持する人々の怒りを買いました。
赤穂城開城
江戸から赤穂へ早駕籠が走り、主君の自決を伝えました。
赤穂藩は召し上げとなって土地を没収され、浅野家は御家断絶となり、間もなく江戸から城を受け取りに目付け役が来ることになりました。
幕府に順わず城を枕に討ち死にするか、おとなしく城を明け渡すか、藩論は二分し,なかなか決着がつきません。江戸詰めの急進派は、主君が討ち漏らした吉良の首を申し受けようと復仇を主張していました。
それをまとめたのが、普段は「昼行燈」とあだ名される、何を考えているやら余人にはうかがい知れない城代家老の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)でした。
内蔵助に生死を一任する旨をしたためた血判状に署名することで、赤穂藩は内蔵助の判断に従うことになりました。
こうして赤穂城は、4月17日、幕府役人に城を明け渡し、家臣は退去することになりました。
復讐会議
内蔵助は、赤穂城明け渡し後、京都の山科に隠棲し、島原の遊郭に通う姿が見られました。
むろん、内心は、主家再興と「喧嘩両成敗」の天下の御法が守られることを望み、吉良への主君の無念を晴らすことを考えていましたが、幕府の密偵の眼をくらますために、遊蕩生活に耽っていました。
最後の頼みだった浅野大学に幕府の処分が下り、もはや浅野家の御家再興の望みがすべて潰えたと知った内蔵助は、同志を京都円山に招集し、吉良への復仇の決定を下しました。
元禄15年(1702年)7月28日のことでした。
赤穂浪士は、商人や町人に身をやつし名を変え、江戸へと向かいました。
吉良邸討ち入り
元禄15年12月14日 (旧暦)(1703年)、元赤穂藩の家老・大石内蔵助以下47名の赤穂浪士は、吉良の首を求めて本所吉良邸に押し入りました。
実際には、小野寺十内が直前に謎の自決、寺坂吉右衛門が暇を出され加わっていないため、45名が討ち入りの人数です。
大石内蔵助が「山鹿流陣太鼓」を打ち鳴らしたとか、四十七士は派手な火事場装束で身なりを整えたとされますが、今日ではこれらは歌舞伎の作り事と考えられているようです。
四十七士の服装は、てんでバラバラながら動きやすいものになっており、袖口に仲間同士を見分けるための目印として白い布が回して縫い付けられていたことがわかっています。決して粗末なものではなく、元禄らしい贅を凝らした死に装束でした。
台所の炭小屋に隠れている吉良上野介を見つけ、間十三郎が一番槍を浴びせ、竹林忠七が刀で切り伏せました。気息奄々の吉良を外に引き出し、駆け付けた内蔵助が本人であることを確認し、とどめを刺しました。
槍先に白布で包んだ吉良の首級をぶら下げ、四十七士は打ちそろって隊列を組み、粛々と13キロ離れた浅野家菩提寺の泉岳寺にある主君の墓に向かいます。
江戸の空は明け始め、町衆が集まり出して、隊列が浅野の家臣であることを知ると、やんやの喝さいを送ったのでした。
『忠臣蔵』の本・映画・ドラマ
元禄15年12月14日(1703年)に赤穂事件が起こったあと、寛延元年(1748年)、事件をモデルにした歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』が初演されました。だいぶ時間が空いていますね。
『仮名手本忠臣蔵』は、その後も踏襲される「討ち入り」の物語の基本構造を確立した、最初の作品と言えると思います。
ただ、だいぶ歴史的事実からはかけ離れた物語になっていることも否定できません。
赤穂浪士の義挙をたたえることは、徳川幕府を批判することにもなるため、登場人物の名前も、活躍する時代も、すっかり作り替えられています。でも、この芝居を見ている観衆には、すべてがお見通しなのでした。
当時の江戸っ子の「反骨精神」を刺激して、だんだんと『忠臣蔵』人気は過熱していきました。
歌舞伎の世界では『仮名手本忠臣蔵』以外にも、江戸時代を通して毎年のように新しい忠臣蔵物語が作られていきました。
登場人物それぞれのスピンオフ・ドラマまで作られていて、それらは「義士銘々伝」と総称されます。
ほかに忠臣蔵外伝として『四谷怪談』(鶴屋南北)などがあります。怪談物語として有名な作品ですが、この影響を及ぼした広さは、いかに『忠臣蔵』が江戸の戯作者たちにインスピレーションを与え続けて来たかを思わせます。
明治41年(1889年)には、福本日南『元禄快挙録』が発行されています。明治になっても『忠臣蔵』人気は続いていました。内容的には、歌舞伎のフィクションが多く取り入れられた通俗的なものだったようですが。
昭和になると、真山青果『元禄忠臣蔵』が、昭和9年(1934年)から昭和16年(1941年)までの足掛け7年間、「新歌舞伎」の台本として書かれ上演されました。この作品の一般的な評価は高いようです。
小説で有名なのは、大佛次郎原作の『赤穂浪士』(1928年)があります。四十七士を「義士」と捉える従来の解釈を一変し、御家断絶の結果、職もなくなった浪人である「浪士」と捉え、リアルな四十七士像を描いて評判でした。第2回NHK大河ドラマの原作にもなっています。
丸谷才一『忠臣蔵とは何か』(1984年)は、物語の『忠臣蔵』と歴史的事件の「赤穂事件」を、日本人の心の底に流れている「御霊信仰」(ごりょうしんこう)から読み解いた刺激的な著作でした。
著者が主張したのは、主君の仇を晴らすという考え方が「御霊信仰」に由来しているということです。
「御霊信仰」というのは、強い恨みを残して死んだ人の霊は、しっかり供養してやらないと祟るという日本古来からの考え方です。
この著作が発表された当時は、哲学者・梅原猛の『水底の歌』(1983年)という御霊信仰から読み解いた柿本人麻呂論や、谷川健一の『白鳥伝説』(1986年)など、民俗学的知見をとりいれて歴史を読み解くのが流行していたので、この著作もその当時の流行の一端を担っていた
平成に出版された代表的な『忠臣蔵』物語は、池宮彰一郎 『四十七人の刺客』(1992年)でした。久々の「忠臣蔵」の大がかりな新解釈の登場で、この小説では赤穂浪士の「討ち入り」が、要塞化した吉良邸に攻撃を仕掛ける「攻城戦」としてとらえられ、赤穂浪士たちの諜報活動や兵站準備などが描かれて画期的でした。
高倉健が大石内蔵助役で、東宝によって映画化(1994年)もされました。
『あゝ忠臣蔵』(1969年)は、これはテレビドラマですが、標準的な『忠臣蔵』の物語が楽しめる、いい作品だったと思います。渡辺岳夫のテーマソングも印象的でした。
テレビドラマ『大忠臣蔵』(1971年)は三船敏郎が、映画『赤穂城断絶』(1978年)は萬屋錦之助が大石内蔵助を演じ、話題を呼びました。
池宮彰一郎『最後の忠臣蔵』(1994年)は、脱盟した瀬尾孫左衛門の受けた密命と、同じく討ち入りに向かう途中で出奔した寺坂吉右衛門の後日談ですが、心を打つ物語になっています。
この二人については諸説があって、何が真実か断定できるだけの史料が残っていないこともあり、小説家が想像を膨らますのには格好の題材でした。
『忠臣蔵の恋~四十八人目の忠臣』(2016年~2017年放映)は、武井咲主演のNHKテレビドラマです。
こちらは赤穂藩の奥女中きよが、町人に身をやつし、恋人礒貝十郎左衛門が討ち入りするのを支え、敵方吉良の女中となって情報収集して助けます。討ち入り後、礒貝が切腹した後は、浅野家再興を目指して大奥へと進み、ついに将軍の子を宿して、浅野家再興を成し遂げるという物語。
『新説!所JAPAN』で磯田道史が新説を主張!
11月25日放送の『新説!所JAPAN』は、『忠臣蔵』の新事実を裏付ける史料が発見されたということで、『忠臣蔵』ファンの一人として、興味深く見させてもらいました。
滋賀県の、四十七士のひとり近松勘六の家来、近松甚三郎の子孫の家に伝わる古文書で、ひとつは討ち入りメンバー全員の名前が書かれた文書で、ところどころ△印が付けられています。これは、討ち入りで特に活躍した人物であることを表しているとのこと。
不破数衛門には△印、吉良に一番槍を下した間十三郎には「首取」と書かれていました。
これは、四十七士が処刑された後に、残された子息たちが、他大名に優先的に召し抱えてもらうための証拠とするためだったとのこと。
初めて知った内容で、面白かったです。
もうひとつの「四十七士墓前報告一件」という古文書には、泉岳寺の浅野内匠頭の墓前で、四十七士がこれまで伝えられて来なかった「或ること」をしていたことが書かれていました。
これまでは、吉良の首級を墓前に供え、一人一人が焼香した、というように伝えられていたと思います。
近松家に伝わる古文書によると、吉良の首を内匠頭の墓の上段に供え、内匠頭の刀の刃を、三度当てる仕草を、四十七士全員が一人づつ行ったということでした。
歴史家の磯田道史は、この行為についての解釈として、「亡き主君・浅野内匠頭本人に吉良を討たせてあげること」が、四十七士の真の目的だった、という新説を述べていました。
当時の武士社会の儒教的世界観では、「生きている人間の命令より、死んでいる人の命令の方が強い」とも言っていました。
この発掘された新事実については、これから他の研究者からの意見も出てくると思いますが、第一発掘者として最初に自分の見解を言う権利は、磯田道史氏にあるでしょう。
儒教というより「呪術的世界観」を私なんかは感じます。やはり「御霊信仰」が、ここにはあるんじゃないでしょうか。
まとめ
『ハーバード日本史教室』という本を読んで、アメリカのハーバード大学では『忠臣蔵』の講義がなされていることを知りました。
そこで学ぶ学生たちは、「切腹」という武士の行為に野蛮さを感じるとともに、大義のためにすべてを犠牲にする四十七士に、感銘を覚えているということでした。
たしかに、日本人に愛され続けている「赤穂浪士」の討ち入りの物語は、日本人というものを理解するための材料として、これ以上に相応しいものはないかもしれません。
歴史的事実がどうかという興味とともに、とんでもなく長いあいだ日本人に愛されている物語であるという事実そのものに、日本文化の秘密が潜んでいそうです。
これからも、どんな新事実や新解釈が出てくるか、『忠臣蔵』からは目が離せません。