ハイパー雑記帳

気になる情報をオールジャンルで取り上げます。

「ギャル電」なる電子工作ギャルユニットがいるらしい。経歴・プロフィール・目標など、洗ってみた。

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「ギャル電」は、まおきょうこ二人の電子工作ギャルユニットです!

といわれても、すぐにピンとくる人は、少ないですよね?

 

私も初めて聞いた時は、 ン? ん? ん? ギャル電って何? って感じでした。

 

そこで、「ギャル電」の経歴やプロフィール、何を目的に活動しているかなどを調べてみました。

 

 

「ギャル電」って、何をやってるユニットなの?

 

ひとことで言うと、日々電子工作にはげんでいる女子たちです。

電子工作というのは、工場のように大きな機械を使って製造するのでなく、 基盤やマイコンやLEDを電気ごてで配線するという、DIY工作レベルのもの。

 

「ギャル×電子工作」 =「ギャル電」という方程式で成り立っています。

2016年9月から「ギャルによる、ギャルのためのテクノロジーを提唱して、「ギャル電」の活動を開始しました。

スローガンは、「ギャルも電子工作する時代」!

 

ただいま「ギャル電」は、渋谷のギャルが自力で電子工作して、 みんなが光る世の中になることを目指して、多彩な活動を繰り広げています! 

 

・「ギャル電のエモいワークショップ」など、  主に光るアクセサリーを工作するワークショップを開催。

・ライトニングトークイベントで、「意識の低いプレゼン」をやっている。

・クラブで作品発表。

・テレビCM出演。

ツイッター、ブログ、インスタ、YouTubeで、情報発信。

・「ギャル電」オリジナルの電子工作キットの販売。

明和電機の公式ショップで、オフィシャルグッズを販売。

 

「光ればモテる!」そうですよ。

 

 

 「ギャル電」きょうこと「ギャル電」まおの経歴は?

 

 これだけ電子工作ができるということは、 いったいふたりはどんな経歴の持ち主なのか気になりますね。 大学に行っているという情報もあり、調べてみました。

 

 「ギャル電」きょうこは、元ポールダンサー。

 

ポールダンスのイベントで、自分が着る衣装や小物に電飾をほどこして、 クラブ出演が発表の場になっていたとのこと。

 

工作技術が上がって来て「今度は電子工作だ」とばかり、

100均で光るおもちゃを買って来ては分解して、構造を見て独学で覚えたそうです。

個人でロボットを作ったりもしています。

 

じつは「ギャル電」きょうこは、自作の「ポールダンスロボ」で、 技術力が低い人たちが作ったロボットのコンテスト「ヘボコン」世界大会に出場し、 最も技術力の低かった人に贈られる「最ヘボ賞」を受賞するという、 輝かしい経歴の持ち主でもあります。

 

青春時代は、SFやサイバーパンクに傾倒していて、 ギャルとかヤンキーは毛嫌いしていたと言っています。

 

いまはOLをやっていて、仕事はエンジニア。 「ギャル電」活動のため、仕事の業務改善をして、いつも定時にあがっているそうです。

「ギャル電」きょうこは、「アニポールきょうこ」として、個人活動もやっています。

 

 

「ギャル電」まおは、タイと日本のハーフで、日本語、タイ語、英語が話せるトリリンガルです。

 

まおは日本の大学に入るまでは、ずっとタイで暮らしていて、 日本のギャル文化に憧れ、『Popteen』や『egg』などのギャル雑誌で研究して、 タイでたった一人のギャルをやっていました。

 

静岡県の国立大学を卒業して、現在は大学院生とのこと。 大学では、電気電子工学を専攻していて、エンジニア目指して勉強中だそうです。 プログラミングや電気回路を学んでいます。

 

日本の電子工作は、技術的に詳しい人だけがやっていて、 海外のような簡単な電子工作やDIYでできるものがない、と思ったそうです。

 

日本には、100均やホームセンターがあって、 材料が手に入りやすい環境が整っている。

日本でもみんなが、もっと簡単な電子工作やDIYができるようになればいいと思って、 ブログで作り方を紹介するようになりました。

 

 

「ギャル電」が発表した電子工作の数々を紹介!

 

「ギャル電」は、ギャルによるギャルのためのテクノロジーを提案し、 たくさんのオリジナル電子工作商品を発表しています。

そのうちのいくつかを紹介しましょう。

 

LEDギャルサンダ

ギャル電オリジナルデザインの基盤をベースに、 LEDで飾った光るストリート・アクセサリー。 株式会社スイッチサイエンスの協力のもと、制作しました。

 

デコトラキャップ

デコトラ」というのは、 かつてトラック野郎が電飾でトラックを派手に飾ったもので、 デコレーションしたトラックを意味します。 キャップに、電飾とミラーシール、偏向フィルムやプラモデルのパーツを取り付けて、 デコトラのように光る電飾をまとったのが、デコトラキャップです。 これをかぶってクラブへ行けば、目立てること疑いなし!

 

★会いたくて震えちゃうデバイス

ぬいぐるみに、電飾や振動モーターを仕込んだもので、 これを彼氏に持たせておけば、会いたいときにWEB上から支持を飛ばすと、 ぬいぐるみの胸のLEDが光り、振動モーターが激しく振動して、 彼氏に会いたい思いを伝えられるというラブリー・グッズ。 「会いたい」「すごく会いたい」「会いたくて死ぬ」という 3つの振動レベルから選べます。

 

★ギャル門松

ストリート・アイテムとしておなじみのカラー・コーンで作った門松で、 LED電飾で飾ったもの。


サイバー パンク 大五郎 焼酎・大五郎の空きペットボトルを、LED電飾で飾ったもの。

 


渋谷を歩くギャルやパリピ(パーティ・ピープルの略。派手なイベント好きな人たちのこと。)に向けて、
「光るモノを身に着けて目立つと、すごくモテる!」と「ギャル電」が訴えているのは、
ギャルたちがバリバリ電子工作をするようになれば、 きっとぶっ飛んだ技術が生まれて来ると信じているから! だからギャルは電子工作するべき!

 

そうして電子部品の需要が増えて、
ドンキで気軽に「Arduino(アルドゥイーノ)」(初心者でも扱いやすいマイコンボード)が買える世界が来ることを、
「ギャル電」の二人は夢見ています!

 

感電上等!


「ギャル電」の インスタはこちらから。 

 
 
 
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#Repost @thecomm.online with @get_repost ・・・ Was kriegt man wenn man die Mode einer Subkultur mit einem Ingenieursabschluss kreuzt. . .Gyaruden! Models: @galdenshikousaku Fotograf: @misa_kusakabe Leitung Fotoshooting: @choom.online Assistenz und BTS Fotografie: @anna.boat.prem • • • Link in bio. Keep up with The COMM's latest. All articles in English, Français, Italiano, Español, Deutsch and 日本語 • #thecommonline #jfashion#kawaii#cute#かわいい#ファッション#原宿 #harajuku#fashion#harajukufashion#gyaru#kawaiifashion#outfit#alternative#aesthetic#cutefashion#photography#tokyofashion#photoshoot#model#modelling#modeling#technolgyandfashion#fashionandtech#techandfashion#cyber#cyberfashion

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 引用:「ギャル電」インスタグラムより

 

 「ギャル電」は、公式YouTubeチャンネルも開設しています。

 「ギャル電」ふたりの活動が、無料動画で見られます!

 

ギャル電✕ASICS『これで人生マジ卍!ランニングをアップデート』

  引用:YouTube「ギャル電」公式チャンネルより

 

まとめ

 

ギャルで、パリピで、かつエンジニア なんて、

未来的でカッコいいですよね!

 

日本のギャルたちが、

ネールアートから電飾アートへと進化する頃、

日本にも、本当のシンギュラリティがやって来るのだろうな、

などと、

よく自分でも意味のわからない言葉を使って締めたいと思います。

 

 

 

赤穂浪士「討ち入り」の目的とは? 『忠臣蔵』の通説に新事実!? 

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本所松坂町公園・吉良邸跡

 

忠臣蔵」とは何か?簡単にまとめてみた!

 

赤穂浪士の「討ち入り」の物語は、一般的には『忠臣蔵』と呼ばれています。

 

実際に起きた事件を題材にして作られた歌舞伎の仮名手本忠臣蔵(1748年初演)が有名になったため、そこから取られた呼び名です。

この歌舞伎の台本は虚構的要素が多く、それと区別するため、実際に起きた事件の方は「赤穂事件」と呼ばれています。

 

忠臣蔵』は、長い間日本人に愛されてきましたが、フィクションの部分が広く知れ渡ってしまったため、 歴史的事件としての真相は、かえって知られていないかもしれません。

歴史的事件としての『忠臣蔵』を、簡単に見ていきたいと思います。

 

殿中刃傷(でんちゅうにんじょう)

元禄14年(1701年)3月14日、赤穂藩藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は、江戸城内・松の廊下で、高家筆頭・吉良上野之介(きらこうずけのすけ)に、脇差を抜いて切りかかりますが、刀の先が吉良の額を傷つけただけで、討ち逃してしまいます。

 

この時の将軍は三代徳川綱吉で、「生類憐れみの令」を発して極端に犬を愛護する政策をとったため、犬公方(いぬくぼう)として庶民から疎まれていました。

 

内匠頭がどんな理由で上野之介に切りつけたのかは、何も言い残していないため、いまだに謎です。

本当に殺すつもりだったら、切らずに突いたはずだとか、内匠頭の動機をめぐってはいろいろな説が入り乱れていてはっきりしません。

 

ただ、浅野内匠頭の殿中刃傷を聞いた綱吉が激怒して、内匠頭には即刻切腹を命じたのに対し、上野介には何の沙汰もなかったため、「喧嘩両成敗」という当時の武家のルールが守られていないとして、多くの武士や町民の間に幕府の処置への不信感を残すことになりました。

 

浅野内匠頭は、当日夕方に切腹しました。35歳でした。

「風さそふ花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん」

という、辞世の句を残したと言われています。

 

「とやせん」の部分は「とかせん」が正しいという説もあり、また、そもそもこの辞世の句自体が作りものだという説もあります。

 

切腹の場が、預けられた大名の庭先だったため、武士の切腹の場として相応しくないと、浅野家とそれを支持する人々の怒りを買いました。

 

赤穂城開城

江戸から赤穂へ早駕籠が走り、主君の自決を伝えました。

 

赤穂藩は召し上げとなって土地を没収され、浅野家は御家断絶となり、間もなく江戸から城を受け取りに目付け役が来ることになりました。

 

幕府に順わず城を枕に討ち死にするか、おとなしく城を明け渡すか、藩論は二分し,なかなか決着がつきません。江戸詰めの急進派は、主君が討ち漏らした吉良の首を申し受けようと復仇を主張していました。

 

それをまとめたのが、普段は「昼行燈」とあだ名される、何を考えているやら余人にはうかがい知れない城代家老大石内蔵助(おおいしくらのすけ)でした。

 

内蔵助に生死を一任する旨をしたためた血判状に署名することで、赤穂藩は内蔵助の判断に従うことになりました。

 

こうして赤穂城は、4月17日、幕府役人に城を明け渡し、家臣は退去することになりました。 

 

復讐会議

内蔵助は、赤穂城明け渡し後、京都の山科に隠棲し、島原の遊郭に通う姿が見られました。

 

むろん、内心は、主家再興と「喧嘩両成敗」の天下の御法が守られることを望み、吉良への主君の無念を晴らすことを考えていましたが、幕府の密偵の眼をくらますために、遊蕩生活に耽っていました。

 

最後の頼みだった浅野大学に幕府の処分が下り、もはや浅野家の御家再興の望みがすべて潰えたと知った内蔵助は、同志を京都円山に招集し、吉良への復仇の決定を下しました。

元禄15年(1702年)7月28日のことでした。

 

赤穂浪士は、商人や町人に身をやつし名を変え、江戸へと向かいました。

 

吉良邸討ち入り

元禄15年12月14日 (旧暦)(1703年)、元赤穂藩の家老・大石内蔵助以下47名の赤穂浪士は、吉良の首を求めて本所吉良邸に押し入りました。

 

実際には、小野寺十内が直前に謎の自決、寺坂吉右衛門が暇を出され加わっていないため、45名が討ち入りの人数です。

 

大石内蔵助が「山鹿流陣太鼓」を打ち鳴らしたとか、四十七士は派手な火事場装束で身なりを整えたとされますが、今日ではこれらは歌舞伎の作り事と考えられているようです。

 

四十七士の服装は、てんでバラバラながら動きやすいものになっており、袖口に仲間同士を見分けるための目印として白い布が回して縫い付けられていたことがわかっています。決して粗末なものではなく、元禄らしい贅を凝らした死に装束でした。

 

台所の炭小屋に隠れている吉良上野介を見つけ、間十三郎が一番槍を浴びせ、竹林忠七が刀で切り伏せました。気息奄々の吉良を外に引き出し、駆け付けた内蔵助が本人であることを確認し、とどめを刺しました。 

 

 槍先に白布で包んだ吉良の首級をぶら下げ、四十七士は打ちそろって隊列を組み、粛々と13キロ離れた浅野家菩提寺泉岳寺にある主君の墓に向かいます。

 

江戸の空は明け始め、町衆が集まり出して、隊列が浅野の家臣であることを知ると、やんやの喝さいを送ったのでした。

 

忠臣蔵』の本・映画・ドラマ

元禄15年12月14日(1703年)に赤穂事件が起こったあと、寛延元年(1748年)、事件をモデルにした歌舞伎仮名手本忠臣蔵が初演されました。だいぶ時間が空いていますね。

 

仮名手本忠臣蔵』は、その後も踏襲される「討ち入り」の物語の基本構造を確立した、最初の作品と言えると思います。

 

ただ、だいぶ歴史的事実からはかけ離れた物語になっていることも否定できません。

 

赤穂浪士の義挙をたたえることは、徳川幕府を批判することにもなるため、登場人物の名前も、活躍する時代も、すっかり作り替えられています。でも、この芝居を見ている観衆には、すべてがお見通しなのでした。

 

当時の江戸っ子の「反骨精神」を刺激して、だんだんと『忠臣蔵』人気は過熱していきました。

 

歌舞伎の世界では『仮名手本忠臣蔵』以外にも、江戸時代を通して毎年のように新しい忠臣蔵物語が作られていきました。

 

登場人物それぞれのスピンオフ・ドラマまで作られていて、それらは「義士銘々伝」と総称されます。

 

ほかに忠臣蔵外伝として四谷怪談鶴屋南北)などがあります。怪談物語として有名な作品ですが、この影響を及ぼした広さは、いかに『忠臣蔵』が江戸の戯作者たちにインスピレーションを与え続けて来たかを思わせます。 

 

明治41年(1889年)には、福本日南『元禄快挙録』が発行されています。明治になっても『忠臣蔵』人気は続いていました。内容的には、歌舞伎のフィクションが多く取り入れられた通俗的なものだったようですが。

 

昭和になると、真山青果『元禄忠臣蔵が、昭和9年(1934年)から昭和16年(1941年)までの足掛け7年間、「新歌舞伎」の台本として書かれ上演されました。この作品の一般的な評価は高いようです。

 

小説で有名なのは、大佛次郎原作の赤穂浪士(1928年)があります。四十七士を「義士」と捉える従来の解釈を一変し、御家断絶の結果、職もなくなった浪人である「浪士」と捉え、リアルな四十七士像を描いて評判でした。第2回NHK大河ドラマの原作にもなっています。

 

丸谷才一忠臣蔵とは何か』1984年)は、物語の『忠臣蔵』と歴史的事件の「赤穂事件」を、日本人の心の底に流れている「御霊信仰」(ごりょうしんこう)から読み解いた刺激的な著作でした。

 

著者が主張したのは、主君の仇を晴らすという考え方が「御霊信仰」に由来しているということです。

 「御霊信仰」というのは、強い恨みを残して死んだ人の霊は、しっかり供養してやらないと祟るという日本古来からの考え方です。

 

この著作が発表された当時は、哲学者・梅原猛『水底の歌』(1983年)という御霊信仰から読み解いた柿本人麻呂論や、谷川健一『白鳥伝説』(1986年)など、民俗学的知見をとりいれて歴史を読み解くのが流行していたので、この著作もその当時の流行の一端を担っていた

 

平成に出版された代表的な『忠臣蔵』物語は、池宮彰一郎 『四十七人の刺客(1992年)でした。久々の「忠臣蔵」の大がかりな新解釈の登場で、この小説では赤穂浪士の「討ち入り」が、要塞化した吉良邸に攻撃を仕掛ける「攻城戦」としてとらえられ、赤穂浪士たちの諜報活動や兵站準備などが描かれて画期的でした。

高倉健大石内蔵助役で、東宝によって映画化(1994年)もされました。

 

『あゝ忠臣蔵(1969年)は、これはテレビドラマですが、標準的な『忠臣蔵』の物語が楽しめる、いい作品だったと思います。渡辺岳夫のテーマソングも印象的でした。

 

テレビドラマ大忠臣蔵(1971年)は三船敏郎が、映画赤穂城断絶(1978年)は萬屋錦之助大石内蔵助を演じ、話題を呼びました。

 

池宮彰一郎最後の忠臣蔵(1994年)は、脱盟した瀬尾孫左衛門の受けた密命と、同じく討ち入りに向かう途中で出奔した寺坂吉右衛門の後日談ですが、心を打つ物語になっています。

この二人については諸説があって、何が真実か断定できるだけの史料が残っていないこともあり、小説家が想像を膨らますのには格好の題材でした。

 

忠臣蔵の恋~四十八人目の忠臣(2016年~2017年放映)は、武井咲主演のNHKテレビドラマです。

こちらは赤穂藩の奥女中きよが、町人に身をやつし、恋人礒貝十郎左衛門が討ち入りするのを支え、敵方吉良の女中となって情報収集して助けます。討ち入り後、礒貝が切腹した後は、浅野家再興を目指して大奥へと進み、ついに将軍の子を宿して、浅野家再興を成し遂げるという物語。

 

 

『新説!所JAPAN』で磯田道史が新説を主張!

 

11月25日放送の『新説!所JAPAN』は、『忠臣蔵』の新事実を裏付ける史料が発見されたということで、『忠臣蔵』ファンの一人として、興味深く見させてもらいました。

 

滋賀県の、四十七士のひとり近松勘六の家来、近松甚三郎の子孫の家に伝わる古文書で、ひとつは討ち入りメンバー全員の名前が書かれた文書で、ところどころ△印が付けられています。これは、討ち入りで特に活躍した人物であることを表しているとのこと。

不破数衛門には△印、吉良に一番槍を下した間十三郎には「首取」と書かれていました。

 

これは、四十七士が処刑された後に、残された子息たちが、他大名に優先的に召し抱えてもらうための証拠とするためだったとのこと。

初めて知った内容で、面白かったです。

 

もうひとつの「四十七士墓前報告一件」という古文書には、泉岳寺浅野内匠頭の墓前で、四十七士がこれまで伝えられて来なかった「或ること」をしていたことが書かれていました。

 

これまでは、吉良の首級を墓前に供え、一人一人が焼香した、というように伝えられていたと思います。

 

近松家に伝わる古文書によると、吉良の首を内匠頭の墓の上段に供え、内匠頭の刀の刃を、三度当てる仕草を、四十七士全員が一人づつ行ったということでした。

 

歴史家の磯田道史は、この行為についての解釈として、「亡き主君・浅野内匠頭本人に吉良を討たせてあげること」が、四十七士の真の目的だった、という新説を述べていました。

 

当時の武士社会の儒教的世界観では、「生きている人間の命令より、死んでいる人の命令の方が強い」とも言っていました。

 

この発掘された新事実については、これから他の研究者からの意見も出てくると思いますが、第一発掘者として最初に自分の見解を言う権利は、磯田道史氏にあるでしょう。

 

儒教というより「呪術的世界観」を私なんかは感じます。やはり「御霊信仰」が、ここにはあるんじゃないでしょうか。

 

まとめ

『ハーバード日本史教室』という本を読んで、アメリカのハーバード大学では『忠臣蔵』の講義がなされていることを知りました。

そこで学ぶ学生たちは、「切腹」という武士の行為に野蛮さを感じるとともに、大義のためにすべてを犠牲にする四十七士に、感銘を覚えているということでした。

 

たしかに、日本人に愛され続けている「赤穂浪士」の討ち入りの物語は、日本人というものを理解するための材料として、これ以上に相応しいものはないかもしれません。

 

歴史的事実がどうかという興味とともに、とんでもなく長いあいだ日本人に愛されている物語であるという事実そのものに、日本文化の秘密が潜んでいそうです。

 

これからも、どんな新事実や新解釈が出てくるか、『忠臣蔵』からは目が離せません。

 

ンゴロンゴロではな、クレーターの中にだな、マサイ族や象やライオンやシマウマがいるってよ!

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初めてこの言葉を聞いた時のインパクトというのは、なかなかのものがあります!

 

ンゴロンゴロ

 

なに、それ?

 

しりとりで勝つための秘密兵器?

 

アフリカはタンザニアにある世界遺産、それが「ンゴロンゴロ保全地域」です。
じつはこの世界遺産は、兵庫県ほどの面積がある「ンゴロンゴロ・クレーター」という巨大なクレーターの中にあります!

 

ンゴロンゴロという言葉は、マサイ語で「大きな穴」を意味しているそうで、まさにクレーターそのもののことを表しているんですね!

 

巨大クレーターと聞くと、「巨大隕石が衝突した痕か?」と思う人もいるかと思いますが、ンゴロンゴロ・クレーターは、火山爆発によってできた世界で6番目に大きなカルデラとのこと。

 

標高2400メートルの外輪山に囲まれた内部には、広大なサバンナが広がり、森や湖水やオアシスがあるので、たくさんの鳥類や動物たちが棲み、このクレーター内で一生を終えていくそうです。ひとつの巨大な生態系を作り上げているのですね!

 

ンゴロンゴロ・クレーターとマサイ族

 

普通、「保全地域」というと、人の侵入が厳しく制限されていそうに思われますが、ンゴロンゴロ保全地域の中では、マサイ族の人々が普通に暮らしています。

なぜか?

 

それは、ンゴロンゴロが保全地域に制定された理由を調べるとわかります。

 

ンゴロンゴロはセレンゲティ平原と隣接し、遊牧民族であるマサイ族は、19世紀頃からこの地に住んで、狩猟・遊牧で生活を営んでいました。セレンゲティとは、マサイ語で「果てしなく広がる平原」を意味していました。

 

しかし、1951年に、かつてタンザニアを統治していたイギリスが、セレンゲティ平原を「セレンゲティ国立公園」に制定したために、セレンゲティ平原で狩猟・遊牧をしていたマサイ族の生活が脅かされることとなりました。

 

マサイ族はこれに猛抗議し、それを受けてイギリスは、1959年に「ンゴロンゴロ保全地域」を「セレンゲティ国立公園」から分離し、ンゴロンゴロ・クレーター周辺でのマサイ族の狩猟を許可しました。

 

つまり、マサイ族の伝統的生活を保障するために設けられたのが、「ンゴロンゴロ保全地域」だったわけです。

 

「ンゴロンゴロ保全地域」で見られる動物の種類が凄い!

 

外輪山に囲まれたすり鉢状の地形と、その中にいる動物たちの驚くべき種類の多さのために、それを一目見ようとンゴロンゴロにやって来る旅行者があとをたちません。

 

何しろ、キリンとインパラ以外の東アフリカに生息する動物がすべているといわれているので、ほとんど巨大な動物園、野生の王国です。

 

 ゾウ、ライオン、ヒョウ、バッファロー、シマウマ、ガゼル、ジャッカル、ハイエナ、ヌー、イボイノシシ、カバ、シロサイなどなど、約2万五千頭の動物たちがいて、また絶滅危惧種に指定されているクロサイも、運が良ければ見られるかもしれません。

 

クレーター内にあるマカトゥー湖には、フラミンゴの大群が生息しています。草原にはダチョウがおり、アフリカンフォークイーグル、カンムリヅル、ホロホロ鳥、ハタオリドリなど、鳥類も豊富です。

 

 

マサイ族を撮影するときは注意!

 

外輪山をめぐる道路を車で走行して、急な斜面を降りていくと、入り口付近にマサイの村があります。ツァーで訪れる場合は、あらかじめ話を通してあるので大丈夫だそうですが、交渉なしで勝手にマサイ族を写真に撮ると,マサイに怒られるそうです。

 

クレーターの中へ降りて行くには、朝8時から夕方4時までと時間が決められていて、1グループ6時間以内と規制があります。

 

 サファリ・ツアーで行くと、赤や青の民族衣装をまとったマサイが出迎えてくれ、伝統のマサイ・ジャンプの踊りを見せてくれるそうです。

 

タンザニアのンゴロンゴロ、一度は行ってみたい魅力のある場所ですね。

 

 

Pomaloの「一期一影」プロジェクト! 自分の人生を表徴する「遺影」を残すという終活! 

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「終活」を実際にやっているシニア世代が増えているようです。

 

「終活」と聞いて、あなたが思い浮かべるものは何ですか?

 

遺言状

エンディングノート

遺産分配

デジタル終活

・・・・・

 

いろいろありますよね!

 

家族を天国に送り出した経験のある方なら、 お葬式で使う故人の「遺影」に使う写真選びで苦労した、という方もいらっしゃるはず。

 

かく言う私がそうなんですが、 家族に自分の死後迷惑をかけないようにしっかり準備したつもりでも、 案外「遺影」に使う写真を残すことまで、気が回らなかったりします。

 

元気な時に、あんまり自分の「遺影」のことまで、考えないよなあ!

 

Pomalo(ポマーロ)株式会社というところが、 自分が生きた証し、自分が大切にして来た生き方や価値観を表した自分らしい「一枚の写真」を撮るという、 生前遺影プロジェクト「一期一影(いちごいちえい)」をスタートさせました。

 

一流のフォトグラファーや編集者の方と一緒に、自分の子供の頃から現在までの人生を振り返り、もっとも自分の人生をよく表現するために、撮影場所に何処を選び、どんな服装で、どんなシーンを撮るか? を打ち合わせます。

 

こうして「最も自分らしい1枚」を作り上げてゆくわけです!

 

これも立派な「終活」だと思うし、なによりこんな写真撮影って、雑誌のモデルにでもなったようで、ワクワクしませんか?

 

生きてるうちから、部屋に飾っちゃったりしたくなるかも?

 

そして、そんな1枚を「遺影」として家族や親族に残せるというのは、これまでになかったスタイルです。

 

撮影してくれるのは、レオナルド・ディカプリオビヨンセオノ・ヨーコなどのポートレートを撮影し、『ニューズウィーク日本版』で「世界が尊敬する日本人100」に選出されたこともある田中 淳子(たなか あつこ)さん。

 

一緒にお話をうかがうのは、海外著名ブランドのオウンドメディアの編集を担当する足立 直侑紀(あだち なおゆき)さん。

 

気になるお値段ですが、遺影写真・額装、撮影実費(1都3県想定)、打ち合わせ、及び諸経費を含んで、15万円(税別)だそうです。 遺影写真は、別カットも含めて、デジタル納品になるとのこと。

 

なんか、凄いビジネスを想いつくもんですね!

 

Pomalo株式会社は、2016年創業のまだ新しい会社です。

「世界中に溢れる情報をワクワクするものに変える」というコンセプトを掲げて、主にセンスがものをいう国内外のファッションブランドやアパレル企業の、オウンドメディア・プロデュースやコンテンツ企画が仕事の中心とのこと。

 

オフィスは渋谷にあって、服装は自由、ゆったりと音楽が流れており、席はフリーアドレス、とてもおしゃれな環境で仕事をしているようです。

この職種にありがちな残業も少なく、従来型の日本的労働環境から一歩抜け出したオフィス環境を実現しているようです。

 

新しい発想や企画は、そんな新しい職場環境から作り出されるということなんでしょうね。クライアントに訴えるのにも、効果的なアピール・ポイントになると思います。

 

少し前までは、「いかに故人らしい葬儀を執り行うか」が終末期人生のテーマになっていた時代があったように思いますが、 最近の「終活」ブームは、人生のゴールに向かって、いかに人生の最後を充実させるかが、テーマになって来ているようです。

 

セカンドライフの充実、生前整理、墓じまい、終活式など、最近伝えられるシニア世代の動向は、みな、残りの人生にとって不要なものを整理・処分し、生前の人生を豊かに過ごすことに焦点があわされています。

 

 Pomalo株式会社が提案する生前遺影プロジェクト「一期一影」も、そんな日本の終活ムーブメントに照準を合わせた、斬新な企画ですね。

 

 

「冬至の七種」には謎が多すぎる

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冬至」(とうじ)とは、1年中でもっとも昼の時間が短い日です。

 

その日を過ぎると、また少しずつ、日が長くなっていき、昼が最も長い日である「夏至」(げし)になり、そこからは再び、冬至へ向かって日は短くなっていきます。

 

こうして1年は、「死」と「再生」を繰り返していると、太古の人は考えました。

 

冬至」は、1年のうちでもっとも「死」に近い日でもあります。

 

夜は「死の国」に続いている「闇」が支配する時空であり、昼の短い「冬至」は、もっとも夜が長い日でもあるからです。

 

死者が棲む闇の国を、古代日本の神話が語られた『古事記』では、「根の国」とも呼んでいますね。

 

原始的な「陰陽思想」や太陽信仰の影響が感じられる考え方ですが、 この「冬至」の日に食べると良いとされて来たのが、「かぼちゃ」を始めとする「冬至の七種」(とうじのななくさ)と呼ばれる、七種類の食べ物です。

 

冬至の七種」が選ばれた理由にも、謎を感じる

 

ちなみに「冬至の七種」とは、次の7種類の食べ物とされています。

 

南瓜(なんきん)・・・「かぼちゃ」のこと

蓮根(れんこん)

人参(にんじん)

銀杏(ぎんなん)

金柑(きんかん)

寒天(かんてん)

饂飩(うんどん)・・・「うどん」のこと

 

春の七草」や「秋の七草」のほかに「冬至の七種」まであるとは、よほど日本人は「七」という数が好きなようです。ものごとを 分類し、記憶する単位としてちょうどいい数なのかもしれません。これが「十」になると、よほど物覚えのいい人でないと、覚えきれないかも?

 

春の七草」は、冬の雪の下から顔を出す元気な畑の野草たちで、実際に摘んで、「七草粥」(ななくさがゆ)にして食べられていました。

 

秋の七草」は、秋の野山に見られる花たちで、これらは観賞用で、食べられません。一番最初に作られたのは「秋の七草」のようです。『万葉集』にも、言及があるようですから。

 

冬至の七種」の由来とは?

冬至の七種」がいつ頃から言われ出したものか、よくはわかりませんが、七種(ななくさ)の一つ「かぼちゃ」が日本に伝来したのが16世紀とされているので、それ以降と考えられ、比較的新しい風習と考えられます。

 

冬至」は、太陽の力がだんだんと衰えて、最も弱まる日でした。当時の人にとって「冬至」は、そこを過ぎれば今度は太陽の力が回復してくる節目の日であり、その日を境に運気が上昇し始める大事な日でした。

 

この考え方は、一陽来復(いちようらいふく)といい、古代に中国から伝わったものです。

 

日本では「冬至」の日に、運気が上昇することを願って「冬至の七種」と呼ばれる食物を「運盛り」と称して供えました。

 

これは、「ん」という言葉が入っている食べ物を食べると運気が上昇するという「縁起担ぎ」でした。「ん」は「運(うん)」に通ずるからだそうです。

 

冬至の七種」は、「ん」が二つ入っている食べ物が集められています。「運」が重なり、「運」が倍になる、縁起の良い食べ物とされています。

 

名前がみんな「4文字」なのは、何か意味があるのでしょうか?

 

それについて触れた解説は、見当たりませんでした。

 

だったら、「ん」が2つ入って、しかも「4文字」の食べ物って、他にもありそうですよね?

 

「きんとん」

「はんぺん」

「ぽんかん」

 

 

など、思い付きましたが、どうかな?

食べると運気があがる?

 

「あんぱん」「かんぱん」「あんまん」「たんめん」「わんたん」「てんどん」

は?

 

でも、こちらは「調理済みのもの」ですが、「冬至の七種」は加工したものもありますが(寒天、うどん)、基本的に「食物名」ですね。「料理名」ではダメなのかもしれません。

 

「ん」は終わりを表すだって? ん? 

 

「ん」=「運」説のほかに、「いろは」47文字の最後が「ん」で終わることから、「ん」は物事の終わりを表し、それが「冬至」に通ずるからという説明も見かけました。

 

一見、らしい説明ではありますが、ただ、それと運気アップとどう結び付くのか? そこがわかりません。

 

「ん」(終わり)を含んだ食物を食べて、「終わり」を「うんこ」にして流してしまおうということなのか?(あっ! なんということを言ってしまったんだろう)

 

「ん」いろは歌の最後に付けられたのは、だいぶ後の時代(たぶん13世紀以降)のことで、最初は「京」の字が最後に付いていました。

 

いろはにほへと ちりぬるを

わかよたれそ つねならむ

うゐのおくやま けふこえて

あさきゆめみし ゑひもせす

 

これは、「ひらがな」に書き直したものですが、この歌はもともと漢字(借字)で書かれていました。

 

以呂波耳本反止 千利奴流乎

和加餘多連曽 津祢那良牟

有為能於久耶万 計不己衣天

阿佐伎喩女美之 恵比毛勢須

 

こんな感じです。

この漢字で書かれた最後に、10世紀頃には「京」という漢字が付いていて、48文字になっていたようです。

それ以前は、47文字だけです。

これが「いろは歌」の原型です。

 

これの「読み下し文」は、次のようになります。

 

色は匂へど 散りぬるを

我が世誰ぞ 常ならむ

有為の奥山 今日越えて

浅き夢見じ 酔ひもせず

 

かなり仏教思想を感じさせる内容となっていて、真言宗の一派の誰か才能ある人物が作ったのではないか、と考えられています。

 

いろは歌」は手習いの手本として、長く近世まで使われ続けて来たので、人々の近くにあったことは確かです。「冬至の七種」が考えられた頃には、最後に「ん」が付いていたと思われます。

 

なにがしかの影響があったとしてもおかしくはありませんが、「いろは歌」の「ん」と「冬至の七種」との関係を、詳しく説明しているものには出会えませんでした。

 

ん? と思ったので、調べてみた結果でした。

「自学ノート」は、子供たちの未来を開けるか?

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「自学ノート」と聞いて、「ああ、あれね」という世代と、「なに、それ?」という世代があると思う。

ちなみに私は、後者の部類に入ります。

 

「自学ノート」というのは、ゆとり教育が云々された時代から始まったようだけど、現在でも多くの公立の小中学校で取り入れられているようです。

 

「自学ノート」のネタ探しを、ネットに頼る子供たち

 

 いまの子どもたちは、宿題とは別に、「自学ノート」を書かなければならいらしい。

 

宿題は、教師が子供たちに「これをしてきなさい」と命じるものだが、自学というのは、子供たちが自分でやることを決めて、それをノートに書いて教師に提出するもの。

 

ちょっと聞くと、 今の子どもたちは自分のやりたいことをやっていいのか、大したもんだ、と思うが、

Yahoo!知恵袋」とか「教えて!goo」を開いて、試しに「自学ノート」と打ち込んで検索してみてください。

 

驚くほどたくさんの小学生や中学生が、「自学ノートのネタが尽きました! 何かいいネタを教えてください!」と質問しています。

 

中には、保護者からの質問もあり、親が見てやれない時、子供はドリルから問題を引き写して、答えを書いて提出するという、一番カンタンなことばかりやっていて、こんなことをやるのに意味があるのか?と「自学ノート」への疑問をぶつけています。

 

子供がどれをやろうか迷うというのならまだしも、何をやっていいかわからず、ネットに情報提供をお願いするというのでは、教師によるオリエンテーション不足ということになるでしょうね。 

 

 子供たちが迎える「未来」とは?

 

そもそも「自学ノート」というのは、何を目的に導入されたものなんでしょう?

 

日本の若者たちは、諸外国とくらべると、「自己肯定感」が低いと言われます。

内閣府が発表した「 平成26年版、子ども・若者白書」によると、自己肯定感を持っている若者の割合は、アメリカ 86%、イギリス 83.1%、フランス 82.7%、ドイツ 80.9%に対して、日本は45.8%となっています。

どうしてこんなに日本は低いのでしょうか?

 

「うまく行くかどうかわからないことに意欲的に取り組む」という項目でも、日本が一番低い。これでは、未知のことに挑戦しようとする人物なんて、育ちようがない気がします。

 

「社会的規範意識」は諸外国並みに持っていますが、「社会問題への関与」や「社会的参加」への意欲は、やはり日本は一番低い。社会の悪い部分が見えていても、自分の手で変えられるとは思っていないらしい。

 

日本の若者は、自分の将来について明るい希望を持っておらず、将来、自分が幸福になれるとも思っていない。

 

こういう「社会観」や「自己意識」を持ってしまっている日本の若者たちを待っているのは、気候変動により毎年のように自然災害が襲って来る世界であり、少子高齢化が進み国際的な経済競争力が低下した日本の社会であり、日本的慣行から抜け出ることができないまま、他の先進国や新興国に追い抜かれていく企業社会です。

 

日本国政府や企業が、従来通りの学校教育では諸外国に太刀打ちできないと考え、「危機感」を抱いているのは明らかです。

 

そのために、英語教育改革や高校入試改革など、見切り発車的にバタバタやっているようですが、「自学ノート」の存在なども、そうした一連の出来事の一部であるようにも見えます。

 

とりあえず「自主性」を、勉学の上でも発揮してもらおうということなのでしょう。

 

でも、いま本当に必要なのは、親や子供に、この日本が置かれている状況に対する「危機感」を、共有してもらうことではないかという気もします。

そうすれば、将来のサバイバルのために、「自学ノート」で何をやればいいのか、そんなことも自ずとわかってくると思います。

 

「自学ノート」が目指すのは、子供たちの「自己肯定感」の向上なのか?

 

 誰かに言われたことをやるだけではダメ!

これからの社会で生き抜くには、問題を解決するために、様々な情報を集め、整理・分類し、自分なりに解決方法を探し、実践する力を身に着けることが大事!

「自学ノート」は、そのためにやるものらしいです!

 参考:「自学の進め方ハンドブック 教員用」

 

これって、大人たちも研究している「知的生産の技術」そのものではありませんか!

 

なるほど! 少し読めてきました。

 

自分の好きなテーマを選んで、いろいろ調べて理解するということを、粘り強く継続する。そのことを通して、自分の「成長」を実感して、「自己肯定感」を育てていく!

これですね!

「自学ノート」を書くことの究極の目的は、「達成感」「自己肯定感」を子供に持たせることなんですね! これならわかる!

 

そういえば「ゆとり教育」が叫ばれたのは、従来型の「詰め込み教育」が批判されたためでした。最近は、ゆとり教育の結果、子供たちの「学力の低下」が顕著になってきたため、ある程度の詰め込みは必要ということに、揺り戻しが来ていますが。

 

それでも「詰め込み(インプット)」だけでは実力がつかないというのは真実で、「アウトプット」することの重要性が、最近では認識されて来ています。

 

子供たちに「自学ノート」を書かせるのは、「アウトプット」の習慣付けなんですね!

 

詰め込んだものは、どんどんアウトプットしないと糞詰まりになってしまい、栄養を取り込めません。

 

いろいろなことをやってみて、成功だけでなく失敗を経験することも、子供にはいい経験だと思います。

失敗を恐れて何も始めないのではなく、何度でも「挑戦する」ことを体験的に知る。それを「自学ノート」で、自己決定を通して学んでいくこと。

 

「自学ノート」は、目的を理解したうえで実践する、あるいはさせるなら、有意義らしいことはわかりました。

 

問題は、その「やらせ方」にあるように思います。

 

 アウトプットの仕方を、子供たちに具体的にいろいろな事例を示して教える時間をたっぷり取る必要があると思います。

それも一度きりではなく、「自学ノート」を進めていく過程で、何度も!

 

そうすれば、子供たちがネットで、「自学ノート」のネタを教えて!とSOSを発することも、なくなりそうな気がします。

「ひっつみの日」は、歴史を思いながら、ひっつみを食べたい! 

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美味しそう!

南部鉄器の鉄鍋に、にんじん、ねぎ、ごぼう、生しいたけ、まいたけ、そして、ぷりぷりの鶏肉とひっつみが入っています!

 

美味しそうなパッケージ写真の誘惑に負けて、「南部ひっつみ」を買って来てしまいました。

 

ひっつみはご存じですか?

 

「ひっつみ」は、岩手県北部を中心に、青森県南部から岩手県一円で食べられている伝統的な郷土の家庭料理です。

小麦粉を練って薄くのばしたものを、手でちぎって鍋に入れ、野菜やきのこや鶏肉と一緒に煮て作ります。

 

岩手県南部から宮城県北部にかけても食べられていますが、この地域では「ひっつみ」ではなく「はっと」と呼ばれる場合が多いようです。内容的には、区別のつけようがないほど、ほぼ同じものと言っていいです。

それについては、後ほど語ろうと思っています。

 

「ひっつみの日」があるのを知ってる?

 

そうなんです! はっとうの日はないけど、12月3日は「ひっつみの日」に制定されています!

 

ひっつみの美味しさを全国的に知ってもらおうと、岩手県生めん協同組合がひっつみの日を定めました。

12月3日の1,2.3を「ひい、ふう、みい」とも読むことから、2を「ツー」と読み替えて、「ひっつみ」と語呂合わせしたものです。

 

「ひっつみ」という名は、「引きちぎる」ことを、地元では「引っ摘む」というところから来ています。地域によって、「とってなげ」「はっと」などというところもあります。

 

だいたい「ひっつみ」は旧南部藩、「はっと」は旧伊達藩だった地域での呼び名になっているようです。

 

ひっつみの基本は、しょうゆベースの汁に、ひっつみとお好みの野菜、肉、きのこなどを入れるのが一般的ですが、山間部と海浜部とでは入れるものが違う上に、各家庭ごとに独自のレシピを持っています。

 

そもそもは、我が家の家庭の味であり、おふくろの味でした。いまでは、岩手県内のほうぼうの店で、観光客のためにメニューに載せているところが増えているので、本場の味を楽しむことができます。

 

「ひっつみ」が生まれた風土と歴史

 

雪国である東北では、気候の寒冷さのゆえに、稲が満足に育たず、米の生産量が少なかった時代が、昭和の初期ぐらいまで続きました。そのころは、農民であっても米をろくに食べることができず、蕎麦や粟や稗などの雑穀を食べることでしのいでいました。

 

小麦を粉にしたものを練って、出汁に入れて食べるという調理法は、そんな時代に生み出されたものです。当時は、出汁に味噌や醤油を入れただけで、野菜もろくに入っていないものを食べていたようですが、東北が豊かになるのにともなって、具材も豊富になり、出汁の取り方も工夫されて、現在のような美味しい「ひっつみ」になりました。

 

山間部では、渓流で採れる岩魚の干物でだしを取ることが多かったようですが、次第に鰹だしへと変化してきました。さらに、鶏肉が加えられるようにもなりました。

海浜部では、魚介類を入れることが多かったようです。

 

いまでは、具に「カニ」が入ったり、「雉」で出汁を取ったものをつかったりと、かなりグルメ化して来ています!

 

私は、宮城県北部に在住してますが、「ひっつみ」と全く同じものを「はっと」と呼んで、子供のころから食べてきました。醤油ベースの鶏肉出汁に、野菜やキノコがたっぷり入ったものを、お袋がきょうはご飯が足りないからと言って、夕食として食べたものです。

 

醤油汁のコクが絶妙で、「はっと」のきゅるんとした噛みごたえが忘られません。冬の寒い時期に、ほっこりと体も心も温めてくれる、熱々のごちそうでした。

 

 「ひっつみ」と「はっと」の違いとは?

 

 旧伊達藩が治めた地域では、旧南部藩が治めた地域で言う「ひっつみ」を、「はっと」と呼ぶということを述べてきました。

 

なぜ、旧伊達藩の地域では「はっと」と呼ばれるのでしょう? それは、伊達藩にまつわる歴史的な事件が元になっています。

 

藩政時代の伊達藩は、新田開発に力を入れ、年貢を取り立てた後に残った米も百姓から買い上げ、江戸へと輸送して売っていました。伊達藩のコメは「本石米」と呼ばれ、江戸の米相場の基準となっていたほどでした。伊達六十二万石は、実質百万石といわれるほど、経済成長を遂げていました。

 

その一方で百姓は、「百姓食物常々雑穀ヲ用食之事」(百姓は米を食わず雑穀を食うべし)という「百姓法度」(ひゃくしょうはっと)が定められ、米を満足に食うことができない状態でした。

 

米を食えない百姓は、米の代用食として、くず米と大麦を混ぜて炊いた「麦飯」や、小麦を粉にして練ったものを茹でた「はっと」を食べていました。

 

この「はっと」を、百姓たちは長い年月をかけて、少しづつ美味しいご馳走になるよう工夫していきました。

 

当時、登米地方を治めていた領主がこれを知って、このままでは百姓たちが小麦ばかり作って、米をまじめに作らなくなることを恐れ、この料理を食べることをご法度(はっと)にしました。つまり、禁止したわけです!

 

それ以来、百姓たちは、この小麦粉を練って作った料理を「はっと」と呼ぶようになりました。

 

これが、旧伊達藩地域で、旧南部藩が治めた地域で言う「ひっつみ」を、「はっと」と呼んだ謂われとされています。

 

参考:「登米はっと」の由来 - 宮城県公式ウェブサイト 

 

 

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